【ご報告】隠れ念仏の研修会がありました。
鹿児島は、室町時代末期から約300年間、浄土真宗の信仰が厳しく禁止されていました。来年(令和8年)がその禁止が解かれてから150年にあたり、鹿児島別院をはじめ、県内の寺院では「さつま開教150年記念法要」が勤まります。浄土真宗が禁止されていた300年の間、門徒方は隠れて教えを護りぬいてきました。この命をかけた信仰の姿は、のちに隠れ念仏と呼ばれるようになりました。川内組では、先日(11月7日)、さつま開教150年を迎えるにあたって、かくれ念仏の研修会を高城町の光明坊さまにて開催しました。
ご講師は伊集院光林寺の林光信先生でした。先生は大分出身とのことですが、ご縁があって40年前に鹿児島教務所にこられたそうです。その最初の担当がさつま開教100年の記念誌の作成であり、これが隠れ念仏の研究のきっかけになったそうです。先生のお話の中には、先生が40年かけて自分の足で様々なところに出向き、聞き取り調査された、関連本を読んでも知ることができない情報が随所にありました。
先生の1時間にわたって、次のようなお話しを聞かせていただきました。
・隠れ念仏という名称
「隠れ念仏」のという呼称が使われるようになったのは、昭和31年に鹿児島大学の桃園恵真先生が、イメージが湧きやすい名称を工夫をされ、隠れキリシタンになぞらえ隠れ念仏とつけられた。ただ、念仏といっても、浄土宗や時宗も念仏をとなえるが、禁止されたのは浄土真宗だけであった。
・念仏禁止のはじまりと様子
一番最初の念仏弾圧命令は、1597年、川内で島津義弘によって出されたものであった。江戸時代前期の弾圧としては、薩摩藩が抱えすぎた武士を整理して、安定した身分制度を確立するために、浄土真宗を信仰する武士を優先的農民に戻す政策が取られた。当時の薩摩藩の人口における武士の割合は25-26%で、全国平均が5-6%なのに対して非常に割合が高く、武士からは年貢がとれないため財政的が切迫するという事情があった。
江戸時代中期は大きな弾圧はなかった。その理由としては、薩摩の人口のかなりの割合が浄土真宗の門徒であったことが一因と思われる。この頃、大谷派の僧侶が秘密裏に調査したら、鹿児島市内の6割は浄土真宗の門徒だったとこのことで、このすべてを摘発をしたら藩が成り立たたなくなるため、大きな弾圧はなかったのではないだろうか。幕末に入ると、薩摩藩の財政危機が深刻化し始める。そんな折に、門徒が本願寺に多額の寄付をしていることが発覚したため、本格的な弾圧が行われるようになった。
(詳細な弾圧の様子については語られなかった)
・禁制時代の信仰の姿
弾圧の中でも、浄土真宗の門徒は信仰を止めることはされなかった。隠れながら念仏を称える信仰生活をされた。タンス・まな板・柱などに阿弥陀さまの仏像を隠し、礼拝のときだけ取り出して手を合わせる。また講というグループを作って、洞穴など人目につかない場所に集まって、仏さまのお話を聞く会を開いていたり、船で海に出て行って手を合わせたり、抜け参りといって、弾圧のない肥後などに出向いていってお念仏を称えていた。
星野元貞先生は、「隠れ念仏というけれど、念仏は隠れていなかった。あの時代は、隠れていたのは門徒であるから、隠れ門徒の歴史である」とおっしゃっていた。
約300年間、門徒たちは様々な工夫をして信仰を守り続けた。
・禁制が説かれる
明治9年(1876年)9月5日に「信仰自由の令」が出され、ようやく浄土真宗の禁制が解かれた。これが出された理由として様々考えられるが、要するに、信仰を規制することが時代に合わなくなってきた。その要因の一つには、明治9年の鹿児島県と宮崎県の合併がある。真宗禁止の鹿児島と認可されている宮崎の合併となれば混乱が起きることが想定された。
・さつまの開教に向けたあゆみ
一番最初に開教事務所ができた場所は、現在の鹿児島市泉町12(いずろ通り、明治屋呉服店というデパートがあった場所)。信仰自由の令が出されてもなお、開教への大きな壁があった。政府は天皇制・神道国教化を進めており、仏教を広げたくない政府は、新しい寺院の建築を認めず、鹿児島にお寺を建てるには、他県にあるお寺を移築するか、他県の廃寺となった寺の号を買収するしかなかった。そのため、明治11年(1878年)の鹿児島別院の建立は、和歌山の性応寺を海路を使い、移築する形で実現した。
その後、明治28年に、川内光永寺の住職でいらした菅了法氏のはたらきかけなどがあり、鹿児島に新寺建立を認める特別処置が下った。これは、鹿児島は、明治2年の廃仏毀釈も厳しいもので、浄土真宗以外のお寺もすべて廃寺となり、僧侶も皆、還俗させらたため、県内に1ヶ寺も寺院がないという事情を汲んでのことであった。
研修会が終わった後、控え室で休まれている先生に押しかけて一つ、質問をさせていただきました。
それは「なぜ浄土真宗は薩摩藩から嫌われていたのか?」というものです。先生は、明確な理由が書かれてある資料は見つかっておらず、断定はできないと前置きされながら、豊臣秀吉の名前を挙げられました。本願寺と豊臣秀吉の関係は比較的良好?であり、一方、島津家と豊臣秀吉の関係には問題があったとのことで、そういったことが要因ではないかと教えてくださりました。多くの隠れ念仏の書物には「すべてのものが平等であるとの浄土真宗の教えが、島津藩の政策に合わず、禁制の原因となったのではないか」と書かれていますが、林先生は、浄土真宗の教えよりも、政治的な要因が大きいのではないかとの立場をとられていらっしゃり、とても興味深く思いました。
非常に学びの多い時間をいただきました。